狭い暗い部屋で煙草を吸っていたらふいに思った。そうか、言葉は四角いんだ。四角の角は当然鋭くて人を傷つける。地球上の億とも兆ともいう人たちが言葉を投げつけあっているときに、おいおまえちょっとは角を削ってから投げろよ、という事態が起きる。私たちは基本的に角を削って投げつけあってる。たまにそのまま投げる人がいるので、人は傷つく。角の面当てが足りない人がいて、ギザギザしてたり尖ったりしたところがぶつかって、たまに当たり所が悪くて言葉で人が死ぬ。言葉は力だ。力一杯ぶつければ痛い。そっと投げたら届かない。私はいかに言葉の角を取って丸くしてから投げられるかに力を注ぐ。こすってみがいて頑張って丸くしたときには投げる相手がいなかったり投げても届かない距離にいたり近すぎて手渡せてしまったり奪い取られてたりする。それでも私は言葉をみがくのでたまに、そこまでしなくてもいいんじゃない? って言ってくれる人もいるんじゃないかと思っているが、まだ出会ったことはない。
ロシアには完全な球を目指している人がいて、その人が言うには完全な球は地球上に存在しないそうだ。世界は広いんだから一つくらいあってもいいんじゃないかなと思うがそれでも無いらしい。その人は、ああもう面倒だからストイコビッチにする。ストイコビッチのストさんは特殊な機械で巨大なガラス球をみがき続けてる。表面のでこぼこを観測してみがく。直径1.5mほどあった球が1mほどになるのに五年だったか十年だったか。それくらいかかる。それでも球は不完全だ。見かけはツルツルのピカピカのシャーッとしたすんばらしい球でも、実際は地球ほどのでこぼこがある。その球にはエベレストがあったりマリアナ海溝があったりピラミッドがあったりする。じゃあ良く探せば兵庫県西宮市の五月ヶ丘だとか大田区の西蒲田だとか渋谷区の神南があっても良い。私はそう思う。じゃあ逆に考える。私が二十七年磨き続けてきた私の言葉には兵庫県の西宮市があるだろうし、西蒲田とか神南がきっとある。そんな土地だとか山だとか海だとか人だとかを一杯詰め込んだ言葉を投げないでまだみがく。みがいてみがいてみがき続けたらきっと最後には五月ヶ丘も西蒲田も神南も無くなってまっさらな地平が広がっていく。そんな見渡す限り何も無い言葉の平原で私は立ち尽くす。
角を削りつくして丸く小さく軽く中身がなくてフワフワ浮いてしまう私の言葉を見て、たまにホワーッと人がよってきて、ああこれはとてもよいですね、とホワーッと笑ってくれる。私はそれが嬉しくて嬉しくて泣きそうになりながら、はいこれはとても苦労したんです、とは言わずに顔をそむけてまたみがく。きっと私は言葉を渡すのではなくみがく事が好きなんだと思う。そうやってみがいた言葉を渡す事を忘れてしまったのではないかと思っていると、ふいに横から殴られる。何いってんの、それただの怠慢でしょ。ちゃんと渡してくれないとこっちはわからないし、あんたみがくことに夢中になってこっちが渡した言葉なくしちゃってんじゃん。ねえどうすんの、あんたいつまでみがくの。いやでも私はこれしかできなくて、こればっかりしてたら楽しくなっちゃったんだ。許してくれないかな。
許してくれるとは思う。けどそれはきっと、そこで終わってしまう。
いま私は少しだけ四角いままここに言葉を置いていく。渡そうにも距離が離れたからだ。四角いコレは時間がたつにつれ少しずつ薄れてかすれて消えてしまうと思う。色だとか匂いだとか味だとか触っても手が突き抜けたり知らない人に蹴られたりしてボロボロになったコレがいつか届くといいなあと思いながら私はちょっと四角いコレを置いていく。