竹津村の本間の家といえば辺り一帯に知れ渡るほどの素封家であり、山向こうには知れ渡らない程度の素封家でした。私はその本間家に、本間せとさんが生まれた記念としてやってきた時計男でした。
本間の家長は本間権三郎さんで、線の細いしかめっ面の厳しそうな方なのですが、せとさんには滅法甘く、何をしても「そうかそうか」の一辺倒で叱ることなど滅多に見られない有様でした。奥方様の本間ちづさんはふっくらしたお月様のようなお顔の女性で、お女中さんに指示を出しながら自分も家事一切を賄うようなお方でした。
この夫妻はとても仲が良く、村の人々には竹津のおしどり夫婦と呼ばれて恐れられておりました。なぜ恐れられるかと申しますと、旦那様の権三郎さんは大の恥ずかしがり屋で奥方様とべったりの癖に、それを見られた途端に「今じゃあい!」と叫びながら襲い掛かってくるからでありました。村の人は夫婦二人でいるところを見ると「おしどり様のお通りじゃあい!」と叫びながら逃げ惑います。お陰でいつも夫婦水入らずで村を散歩できますが、村人にとってはいい迷惑です。
そんなご夫妻ですが、村役人として尽力してきた事と頼りがいのあるお人柄によって、大変に尊敬され愛されておりました。
さて私はと言いますと珍しくも無い時計男でございます。首の上には木枠の時計盤が乗っており、カチコチカチコチ長い針と短い針と細い針がグルグル回るだけの時計男。本間の家に来たころは艶出しの塗られた枠の中に白塗りの文字盤が美しく、銅の数字がピカピカと輝いて、私も誇らしげに家を歩き回り時を知らせたものでございます。そんな私も螺子を巻いていただかないと動けないわけですから、一日一回旦那様の手ずから螺子を巻いていただくのが習慣でございました。その習慣もせとさんが六つになった頃にせとさんの役割となり、それからずっと私の螺子をせとさんが巻いてくれておりました。
螺子を巻くというのは私の命を永らえさせるための儀式です。螺子を巻いてもらうというのはただ単に時計男の動力補給というだけではなく、何か生きる意義を一日一日改めて吹き込むような、そんな儀式だと私は勝手に思っております。そんなわけですから、螺子を巻いてくれるせとさんには一際思い入れが深く、せとさんがいるからこそ私は生きているのだと思うようになっていたわけでございます。
せとさんが五つのときに、私に「彦助」という名前をくれました。幼い時分は「ひこすけ、ひこすけ」と私の後ろをついて回っておりました。腰まで伸ばした長い黒髪を艶やかにたなびかせながら、村のあぜ道を全速力で爆進するやんちゃな子供時代は今でも微笑ましく思い出せます。十も過ぎる頃にはすっかりおしとやかになり、村の悪餓鬼が何もできずに遠巻きにして、溜息を尽くしかできないような美しい娘になっておりました。その頃には私の呼び名も「ひこさん、ひこさん」となっており、たまに私の螺子を巻きすぎて、ガリッと音を立ててしまうところが愛嬌でした。
愛嬌と言えばせとさんは自分の標語を作っており、十一の時に「度胸、愛嬌、素っ頓狂(すっとんきょう)」という言葉を自分の座右の銘にしたいとおっしゃっておりました。おしとやかなせとさんではありますが、庭の毛虫にびくともせず、膳を運べば廊下にぶちまけ、料理を作れば砂糖と塩を間違える方でしたので、その意味では座右の銘は正しいものだったのでしょう。