我が家ではサロンパスを使ってはならぬ、というしきたりがある。
従って私がサロンパスの存在を知ったのは中学校に入ってからであった。どれだけ関節が痛もうとも、どれだけ風邪でリンパ節が痛もうとも、我が家ではあのメントールのスーッとした臭いを嗅ぐことはできない。よって捻挫は私の最も恐れる怪我の一つであった。
男子たるもの、大きく強くあらねばならぬと母は言った。しかし、大きく強く育ったのは姉であった。
夏の長い休みに入るや否や、我らが偉大なる母はタカラヅカ観劇のため、遠く西の兵庫へと旅立っていってしまった。そして我が巨大なる姉は、常夏の国の砂浜でバックドロップをした場合どの程度痛いのか、という実地検証をするために恋人のタカシさんを引き連れてハワイへと旅立っていってしまった。何故にタカシさんは姉の残虐なる暴力に耐え切ることができるのか、と私は長年疑問に思っている。
タカシさんは良い人だ。その彼の膨大すぎる器の大きさが姉という巨大な水の塊をパックリ飲み込んでいるのだろう。願わくば、重みに耐えかねて器が割れないことを願うばかりだが、姉のバックドロップを受けて尚にこやかな笑みを絶やさないタカシさんならきっと大丈夫だろうと私はほんわか思っているのである。
そんな家中の二大権力が旅立ち、我が家にポッカリ威厳の空白地帯が発生した本日、異変は起こった。
私が市立図書館にて受験勉強という名の惰眠を貪っていると、母からメールが来た。
「寝てないで勉強しなさい」
母の恐ろしき千里眼に震え上がった私は「寝てないよ」と返事をして勉強に精を出した。悪戦苦闘の後、成し遂げてやったぞという男の顔をして自宅へ帰り着いた私は異変に気付いた。自宅のドアを開ける前から、私の鼻についぞ我が家で嗅ぐはずのない臭いを感じ取ったのである。
「サロンパスではないか!」
そうだ、間違えようが無い。中学校の陸上部の部室にて、男汁溢れる空気の中から初めてサロンパスの臭いを嗅ぎ分けたあの日から、私はこの臭いを間違えるはずが無い。サロンパス禁制、サロンパスに対して鎖国を行っていた絶対君主制の我が家に何故この臭いが、と勘ぐる時間も惜しい。私は自宅の鍵を開け、玄関へと飛び込んだ。
玄関のドアを開けるとそこには父の黒い革靴があった。
父は本来ならこの時間、会社で部下に指示を飛ばしつつ鼻毛を切るのに忙しいはずだ。なにゆえおうちにいるのですか、と思いつつも私は靴を脱ぐ。サロンパスはますます匂い立ち、思わず意識が天上へと飛んで行くかの如くである。
父は先祖伝来の彫りの深い顔立ちで、部下たちからダンディー、ダンディーとキャアキャア言われているらしい。母から言わせればきざな顔立ちでなよなよしている、との評価だが、では何故結婚したのですかと問えば、
「……勢いかしら」
とのたまう。私は勢いで生まれたらしい。
そんな我が家では当然、父は恐妻家である。サロンパスを家に持ち込むなど言語道断。まさかするはずがないと思っていた。しかし、今、匂うのである。
「父上!父上!」
と叫びながら私は居間を見、台所を見るが父の姿はない。階段に近づくといよいよ匂いの元は二階からとわかり、私は父の姿を求めて二階へと上がっていった。
二階にある部屋は私の部屋と、姉の部屋、衣裳部屋、そして父と母の寝室である。サロンパスの濃厚な香りをたどって行くと、父母の寝室へとたどりつく。
「父上、父上、いらっしゃるのですか」
私は控えめなノックをして父の帰宅を確かめる。
「お前か、入りなさい」
やはり父は帰っていた。私は父を問い詰めるのか、それとも何も言わずに済ませるのか、決めかねた状態のまま寝室のドアをゆっくりと開けた。
父は寝室にいた。しかし全裸であった。いや、全裸ではない。臀部に、肩に、肩甲骨に、体のいたるところにサロンパスを貼り付け、まるでサロンパスの鎧で覆われたかのごとく白い裸身で私に後姿を晒していた。
「父上、これは一体どうしたことです。我が家の決まりは知っているでしょう」
私は知らず、問い詰めるかのように父に問うた。拳は握り締められ、背中には何か嫌な汁が流れている。それも当然、サロンパスを我が家に持ち込んだことが露呈すれば、母からの折檻が待ち構えている。今回の犠牲者は父だとしても、あの地獄の業火すら生ぬるいと思われる折檻を思い出しただけでも、私は体が縮こまるような思いであった。
そんな私に父は後姿のまま応えた。
「息子よ、お前には夢があるか」
父の声にはついぞ聞かないような哀愁が漂っており、私は喉まで出掛かっていた言葉を飲み込み、父の次の言葉を待った。
「息子よ、私には夢があった。母と結婚する前のことだ。私にはいつか幸せな家庭を持ち、心優しい子供と愛する妻を持てれば、それでよいと思っていた。そして、それは叶った」
仕事ばかりを追い求め、あまり家庭をかえりみなかった父の言葉に、私は思わず涙ぐむかのように唾を飲み込んだ。
「そしてもう一つ、夢があった。仕事に疲れて帰ったこの体に、妻が優しく労わりながらサロンパスを貼ってくれる、そんなささやかな夢があったのだ」
ああ、なんということだろう。父にはサロンパスで家族の絆を確かめる夢があったのだ。
「しかし、母さんと出会い、母さんと恋に落ち、私の将来にはこの人しかいないのだ、とまで思った時に知ったのだ。母さんは、サロンパスが、大の嫌いであった」
そうであったのか、と私は委細を理解した。物心ついた時より我が家ではサロンパスが禁止されていた。誰が何故どのようにという事を考えることなく、サロンパスは禁制品であったのだ。それが母の苦手によるものだとは、まったく知らなかった。私は我が家の秘密を少しだけ垣間見たような気になっていた。
「私はその時、どうすべきか迷った。そこで私の夢を語っても良かった。しかし、頬を染めて他愛無い好き嫌いを話す母さんは、そりゃあ可愛かった。とても言い出せるような事ではなかったのだ」
ああ、父よ。父よ、あなたは愛に生きた。母のために自分の夢を捨てたのか。しかし父よ、できるならばそのままこちらを振り向かないで欲しい。あなたの紳士が見えてしまう。